ふしあな



何かの解答を求められたとき、「ぼくは“ふしあな”だから間違ってるかもしれないけど」と前置きしながら答えることがあります。

これは謙遜でも何でもなく、実際にぼくは2つの“ふしあな(眼)”から世界を了解しつつ現に生きています。

それだけではありません。

ぼくが五感で感じる世界は、僕の身体に相関的に構成された世界であり、決して世界一般などではありません。

ぼくは身体という“ふしあな”を通して構成された固有の世界の内で生きているのであって、やはりそれをそのまま世界一般に拡張することはできないのです。



ぼくはまた、他者とも関わりあいながら生きていますが、その他者もまたそれぞれ“ふしあな”から世界構成しています。

自身と他者は、ともに世界構成しあいつつ生きているので、世界は本質的に共世界だという話になりますが、お互いが“ふしあな”を通して世界構成しているからやはり世界一般には到達しえません。

この自覚があれば、自分の信念を過度に一般化することによって信念対立化してしまう可能性をうまく低減してくれると思います。

自分の信念に疑問を持っていない人も、強い理想理念を掲げている人も、何のやる気もなくだらだらしている人も、みんな“ふしあな”からのぞき込んだ世界の内で生きているに過ぎないのです。

ぼくたちは、お互いに世界を規定しあいつつも、固有の世界の内で生きています。