インセンティブとしての危機と作業療法



ぼくは作業療法士になって十数年経ちますが、「作業療法の危機」ということはずっと言われています。

学生の頃にはじめてそれを耳にしたときはビックリしました。

「何とかせんとアカン!」と。

しかし、どの時代の作業療法の文献を読んでも、「作業療法の危機」と主張されています。

それこそ、作業療法の創世記から現代までずっと「作業療法の危機」なわけです。

そう主張されていない時代が見つからないぐらい、ずっと言われています。

これは特別な事態なのか、と思って他領域に目を配ると、そこでも同じように「〇〇の危機」という言説が飛びかっています。

例えば、心理学の危機、哲学の危機、社会学の危機などなど。

基本的にどの領域も危機だと言われ続けていることがわかります。

つまり危機はデフォルトなんです。

決して特別な事態ではない。

ここから推論できることは、いくつかあります。




そのひとつは、危機を主張すること自体に、何らかのインセンティブが作用しているということです。

それは当該領域全体の発展なのかもしれないし、特定のテーマの促進なのかもしれません。

「〇〇の危機なので、□□に取り組まなければならない」と言われたら、それに取り組みたくなりますから、危機を主張すること自体が目標達成のための刺激になっている可能性があるわけです。

例えば、作業療法のアイデンティティの危機と声高に主張されると、作業療法の同一性の確立に向けて取り組みたくなります。

実際、世界で多くの作業療法士がその方向で動きました。

他にも現在の日本の作業療法は、生活行為向上に取り組まないと生き残れないと大々的に主張されているので、それの取り組みにむけて大勢が頑張ってます。

未来の完全な予想は原理的に不可能なので、その危機通りになるかどうかはまったくわかりません。

けども、ぼくたちはそう声高に言われると、それを回避するために行動したくなります。

なので、「〇〇の危機」という主張にビックリした人は、そう主張することによって、どういう目的が達成されしようとしているのか、という視点でクールにとらえ直すとよいかもしれません。

なかには本当の危機もあるけどね。