ゼロから考える勇気



この世にはいろんな学説があり、同型の現象を扱っているようでも、さまざまな意見が乱立しています。

多くの人びととフラットに交流する機会が増えれば増えるほど、さまざまな意見にはそれ相応の妥当性があり、同時に限界があることに気づくことになります。

もちろん、こちらの不勉強で理解がおよばないために感受する限界もあるでしょう。

あるいは、同じ土俵に立ててないために妥当性のもっとも強靱な部分が理解できていないこともあるでしょう。

しかし、ここで大切なことは、さまざまな意見が乱立しており、その色合いが立場によって異なってしまう、という事態です。

自らの歩を先に進めたい人は、この事態を軽視してはいけません。

それぞれの学説は、優れた知性たちによって発展してきたわけですが、上記の事態はそれでもなお疑わしくないものはなにひとつないことを表しているからです。

これを前提にすると、ぼくたちの前に2つの道が大きく開かれます。




ひとつは、ひとまず学説が妥当な部分を引き受けて、技巧を凝らしてその検証に進む道です。

この場合、既存の学説の検討と解釈が営みの中心になります。

ただし、いくら学説を積み上げても基礎工事が不十分ですから、足下がぐらついた状態がずっと続くことになります。

それに疑問をもつと根底が崩れるので、検証の対象はもっぱら妥当な部分のみに当てられます。

かりに、疑わしくないものはないと言いだす人がいたら、ディシプリン内部の不文律をもってしめだしにかかることもありえます。

さて、もうひとつは、疑わしくないものはなにひとつないと引き受けて、自分のアタマで底の底から考えなおすという道です。

これは、理にしたがって吟味を重ねていき、多くの疑わしいことがらをどんどん解消していき、より頑健な学説の構築に向かうという営みです。

その延長線上で検証に進んでいくことになるわけですが、基本精神は学説の前例をいったん脇に置き、自分のアタマでしっかり考え抜くことによってより確かな知見をつんでいくことになります。

どの道を選ぶかは個人の自由です。

ぼくは後者を選んだけど、これは塀の上を目隠ししながら歩くようなものなので、間違って向こう側に落っこちても知らないからねw。