2016年8月16日

作業的存在としての人間の諸次元

人間の存在様式は、立場によっていろいろ規定できます。

社会学者は人間を「社会的存在」と言うでしょうし、人類学者は「文化的存在」と呼ぶかもしれません。

存在様式の規定の仕方は、基本的にポジショントークです。

ぼくたち作業療法士は、作業中心に世界を、人間を理解します。

なので、われわれは人間を「作業的存在」というように呼びます。

作業的存在という人間理解は、作業科学からはじまりました。

当初は、なにやら薄らボンヤリした概念でしたが、だいぶ精緻化されつつあります。

それを図式化したものが、以下です。

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ここで重要なポイントはDoingです。

人間は何かすることによって、存在を、ありうるを、所属を確かなものにしていきます。

そしてDoingは、存在、ありうる、所属とは別ではなく、むしろ分かちがたく結びついているのです。

人間がどういう仕方であるのかは、Doingとそれにしっかり結びついた本質的要素によって規定されるのですね。

自分は自分。他人は他人

人間関係が濃密になると、ちょっとした違いが許せなくなりがちです。

例えば、ちょっとした物言いや振る舞いが気にくわなくなることがあります。

濃密になる前は、そんなことなかったのに。

あるいは、ほんの些細な関心のズレや興味の違いに、感情が逆なでされることもあります。

濃密になる前は、そんなことなかったのに。

濃い人間関係は、信頼、愛情、友情の高まりによって生じるものだけど、同時に自分を、他者を傷つけることもあります。

きっと本当は、仲良くなりたかっただけなのに。

濃密な人間関係がトラブルを引きおこす理由は、「自分は自分。他人は他人」という幼稚園児でもわかる基本ルールを逸脱するからだ、とぼくは思います。

例えば、あなたが「〜であるべきだ」と思うことがあり、他人がそれを無慈悲に否定したとしても、「あいつはわかっちゃいない」とか「底が知れている」などと批判するのは、人間関係がわずらわしくなるばかりなので可能ならばやらないほうがよいです。

だって、「自分は自分。他人は他人」なんだから、他人の生き方に干渉するのは下品です。

もちろん、赤ちゃんは別ですよ。

親に全面的に依存しないと生存できませんから、親は自他の境界を越えて赤ちゃんのためにひたすら面倒を見るしかありません。

だけど、親子であっても子の自我が芽生えはじめた頃合いから、上記の基本ルールはしっかり守る必要があります。

さて、そう考えると一部の例外を除いて、他人と仲良くなりたかったら、希薄な人間関係のほうがよいのではないだろうか、と思えてきます。

人間関係が希薄だという自覚があれば、いつ関係が途切れるかわからないため丁寧に対応しますから、結果として他人の生き方に土足で干渉し、傷つけるようなことはしないですからね。

そうやっているうちに、気がついたら何十年も関係が続いたときに、事後的にそれを唯一無二の友ができたと言えるのだろうと思います。

他人と仲良くしたい人は、濃密な人間関係という幻想に甘えちゃいけません。

それは、乱暴な人間関係を呼び込みます。

「自分は自分。他人は他人」なんですから。

2016年8月10日

人物評価と欲望

人間は社会的存在である、という考え方の萌芽はアリストテレスに求められます。

彼は、ポリス(共同体)を志向する自然的本性を解いたわけですが、それによって人間の社会的存在という特質を言い当てた最初の人に位置づけられているわけです。

アリストテレスも自覚的であったように、社会的存在としての人間という特質はある前提をもっています。

それは、ぼくたち人間が分業を前提にしている限りにおいて「社会的存在」だというものです。

自力で生きてのたれ死ぬことも可能なので、いつでもどこでも社会的存在というわけではないのです。

さて、社会的存在としての人々は、共同体の発展のために共通の利益に資する「善き人」を求めます

日常的に自覚的・無自覚的に行われる人物評価は、社会的存在としての人間の宿命のようなものです。

ここで完全に客観的な「善き人」はいるのか、という問題が発生します。

原理的に言えば、そんな人はいません。

ぼくたちは、何らかの欲望に応じて人物評価せざるを得ないからです。

例えば、「信用できない」という人物評価は「嫉妬」や「貶めたい」という欲望に彩られたものかもしれません。

あるいは「能力が高い」という人物評価は「都合よく利用したい」とか「仲間にしておきたい」という欲望の現れかもしれません。

「この人は本当に『善き人』だ」という人物評価でさえ何らかの欲望に応じたものです。

評価は必ず何らかの欲望に相関的に行われており、徹底的にポジショントークまっさかりなのです。

なので、どんな高尚な理屈を述べても、人物評価は欲望にまみれていると理解しておく必要があります。

人物評価を喜々として話す人がいたら、その言動の背後にある欲望をじっくり見定めるとよいでしょう。

でないと、思わぬところで足下をすくわれかねませんよ。

2016年8月9日

研究法談義

昨日は竹林研究室にお邪魔して、6時間ぶっ通しで友利幸之介くん、竹林崇くん、京極の3人だけで研究法について議論しました。

その間、3人とも飲まず食わずで、ただひたすら研究について議論し続けました。

お二人ともこの業界を牽引する気鋭の研究者ですから、話題のユニークさも広さも深さも先見性も超一級でした。

懇親会には新進気鋭の寺岡睦さんも合流し、これまた3時間ちょいざっくばらんに話し続けました。

とても贅沢なメンバーで時間を過ごし、ぼく自身さらに成長したいと思いました。

さて議論の中心は、作業に焦点化した研究法でした。

人間の作業にしっかりコミットするには、どういう研究法が求められるのか。

そういう観点からの議論だったと思います。

議論の詳細は省きますが、それを通して感じたことのひとつは、作業療法士には研究法に関する幅広い知見とそれを的確に応用するチカラが求められている、ということです。

ぼくたちが対象にする人間の作業は、とても単純であると同時に、極めて複雑です。

研究者の観点や研究の状況に応じて、その立ち現れ方が変わります。

こういう現象にアプローチするためには、特定の研究法に精通するだけでは不十分で、立ち現れ方にあわせながら柔軟に探求するためにいろんなやり方に精通している必要があります。

理論的研究も、質的研究も、量的研究も、その統合も理解していることが期待されます。

そして最も重要なものは、研究課題の設定。

研究課題は基本的に、うまくいけば人類の発展に貢献できるという予測のもとで設定します。

が、何がどう役立つかは後になってみないとわからないので、どこかにゆとりをもたせてワケのわからない取り組みも許容する度量が必要です。

特に、人間の作業のようにいろんな切り口がある対象を探求する場合には、それが求められるでしょう。

もちろん、ぼくもまだ成長の途上です。

わからないことも、できないこともたくさんあります。

今後もしっかり適応していきたいと気持ち新たにしました。

2016年8月8日

連載:不倫の人

『治療』(南山堂)の最新号がでました!

今回の連載テーマは「不倫の人」です.

一部のひとはなぜ不倫するのか,不倫の信念対立はどうして激化するのか,を紐解きつつその対処法を述べていきます.

関心ある人はぜひどうぞ!

http://www.nanzando.com/journals/chiryo/

 

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